「芸術化された自然について考えたこと」と坂本龍一の限界

制作者側からすると「芸術化された自然」は人間が自己の都合にあわせて、自分が定義する自然を鑑賞者に危害を与えない形で切りとったものであるのではないかと考えた。切り取りの行為自体にはオリエンタリズムというメカニズムが働くこともあるが、実はサイードが切り取った”オリエンタリズム”は人類に普遍的な人間性の一部ではないだろうか。また、自然は無限のバリエーションを提供するが、自然をどんな形できりとっても限界がある。しかし、どのようにすれば自然のバリエーションに近づけるのであろうか。鑑賞者側からすると、「芸術化された自然」は非日常への媒体となり、鑑賞方法も多様化している。

 

1. オリエンタリズムは人間性の下位概念

芸術化された自然を考える時、芸術と自然をどのように捉えるかにより、関係性の捉え方が異なる。英語で芸術はArtで自然はNatureである。Natureという概念は、Artの反対概念である。自然の性質を帯びている(Natural)ということは人工的性質を帯びていないということである(not artificial)。広義ではNatureの中にArtを含む考えもある。しかし、「芸術化された自然」は、NatureがArtに含有された形となるのではないだろうか。つまり、人間の都合に合ったものになっているのではないだろうか。

「芸術化された自然」は人間に好都合だが、自然とは本来は手のつけられない怖い物である。人間は未だに地震や天気を制御できない。人間自体の“自然状態”も制御できず、人災である戦争も回避できない。トマスホッブス著『リバイアサン』の表紙(添付ファイル参照)は、アブラハムボスが描いたが、この絵が人間と自然との関係をよく表している。ホッブスの「万人による万人に対する闘争(the war of all against all)」という概念は、おおよそ人間が理性がない場合は動物状態であり争いが起きることである。ホッブスはこれを“自然状態”とした。まさにこの自然状態を支配する人間という概念が「芸術化された自然」を考える時に重要である。

人間がペットを飼う行為と「芸術化された自然」は非常に似ている。多くの動物は人間にとって不快で、危害を加える可能性が高い。犬も人間を噛む犬はペットにはならない。エイも自然状態では人をさすが、飼い慣らすと人間が一緒に泳いでも、エイは人を刺さない。動物を人間の都合の良いように飼い慣らしたものがペットである。サイード著『オリエンタリズム』では、オリエンタリズムは西ヨーロッパの近代の人間が、自分以外の文化圏の人間に投げかけた都合の良いイメージの投影としている。非西欧圏でも同じような構図はある。しかし、突き詰めていくと人間が動物をペットにする行為自体の下位概念でしかない。西洋人が勝手に作り上げたオリエントのイメージの形成過程は、都市に住む人間が子グマを愛くるしいものと勝手に思っているイメージを描くことに近いのではないだろうか。

自然も険しい山頂、崖縁に行くのは非常に困難であるが、それを撮影したり、描写して人間は安全に楽しむことができる。「芸術化された自然」は人間が動物をペット化しているのとよく似ている。人間共通のHuman Natureであり、マックスウエーバーの「価値自由」ではないが、それを認識した上で制作者は芸術を制作、鑑賞者は鑑賞することが大事である。19世紀半ばからサブリミナル効果の研究がはじまったが、サブリミナル効果も鑑賞者がサブリミナル効果がある作品だと知っていると、その効果は薄くなる。

2. 人間のバリエーションの限界とその限界を超えるヒント

日本の官公庁や会社の海外事務所の応接室にいくと、富士山を描いた絵が飾られていることが多い。この凡庸さには食傷気味になり、そういった絵が飾れていない応接室にいくと安堵した。しかし、一方で「またか」ということも楽しんだ。富士山という題材に飽きるということもある。しかし、富士山が醸し出す無限のバリエーションを到底人間は切り取ることはできないのではないだろうか。

John Ruskinは『ベネチアの石』という建築論を執筆し、ゴシックのモノづくりを再評価した。ゴシック建築は建築家が全てを見通して作っているものではない。その時その時の自由な職人の手仕事の積み重ねである。建築家のアイデアだけで建築すると、それ以上のものは生まれないが、不統一であるからこそ建築に自由がある。これこそまさに「芸術化された自然」ではないだろうか。個人的なことになるが、去年、家を建てる際、建築業界の都合で本来の壁の仕上げ方を駆逐した壁紙は嫌いなので、多くの困難を乗り越えて、全ての壁を塗り壁にした。しかし、意図せざる結果は、2人の職人の自由な手仕事ですべての壁が塗られ、即興的な手塗りの壁が美しく、普段の生活を支えるささやかな芸術となった。部分的でしかない、芸術のための芸術の高価な絵画や彫刻より、W. Morris『Letter Arts of life』の総合芸術としての装飾という考えが実践されている結果ではないだろうか。

多くの曲を作った坂本龍一は、晩年に「人間のバリエーションには限りがある。自然のバリエーションには到底太刀打ちできない」というようなことを言っていた。しかし、一人のマスタープランをもった神のような芸術家ではなく、複数の人間がある程度即興的に作ることで、多様さを包括する自然に近づけるのではないだろうか。オーケストラやビックバンドの規模だと、即興演奏の枠組みに多くの制限をかける必要が出てくる。しかし、少人数の即興演奏には自然のバリエーションに近づく可能性はある。もちろん、自然のバリエーションの数には敵わない。しかし、人間が「認識できる範囲での膨大なバリエーション」が作ることができれば、実質的には自然が作り出すバリエーションと同等と言えるのではないだろうか。坂本の限界は音楽を神の視点から捉え、奏者が完全にコントロールできない即興的な作曲や演奏を十分に行なってこなかったので、「人間のバリエーションの限界」を痛感したのではないだろうか。

3. 芸術作品の鑑賞は本来の自分を取り戻す(非日常)役割と鑑賞方法の多様化

産業革命により人間の疎外が起きる。多くの人は野山から遠い都市に住むようになり、本来の自分の生活は別の場所にあるように思う。近代の西洋化社会の住民は、自分の生活に不満足である。現在の不足状況を補うのに、旅行に行ったり、旅に行けない場合は芸術化された自然である絵画などを楽しむのではないだろうか。芸術作品の鑑賞は本来の自分を取り戻す役割を担っているとも言える。

飛行機が庶民の手が届く乗り物になり、世界中の世界遺産も実際に見ることは非現実的ではない。さらに、高価な写真集すら買わずに、現在はインターネット上でいろいろなものを見ることが可能で、芸術作品へのアクセスは格段と容易になった。例えば敦煌石窟を現地に見に行っても、本物はなかなか見せてもらえず、ビジターセンターの映像などを見せられるたりする。ビジターセンターの映像の方が、本物を実際に目でみるよりも、細かい仏像の輪郭が見えたりし、より実際的に感じるかもしれない。また、実際に現場にいったとしても、特に風景などは写真の方が実際目で見るものより優れていると感じることもある。VR技術の発達によっては、本物よりもVRで見るものを人間は本物と感じるかもしれない。VRでみる自然が本物で、本物の自然との立場が逆転する可能性もあるかもしれない。商品から貨幣へのフェティシズムに至るように、本物の自然からVRで見るものへのフェティシズムという可能性も否定できない。

以上