村上春樹は「過去の人となりたいのであろうか?」

Is Haruki Murakami ready to be a memory?

村上春樹は雑誌『LifeWear magazine』で

Q15. SNSはいっさい見ないそうですが、その理由は?

大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから、逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない。

https://www.uniqlo.com/jp/ja/contents/lifewear-magazine/haruki-murakami/?utm_medium=email&utm_source=uq_html&utm_term=uh_210219seg_active&utm_content=109

と語られていました。

発言の意図はもしかしたら違うのかもしれません。飛躍し過ぎかもしれませかもしれませんが、優生学Eugenia的な考えを無意識に持っているにおいがしてきました。

英語にthe cream of the society(上流階級)という言い方があります。彼は社会の上層部分しか追わなくなってしまったのでしょうか。いい文章、いい音楽も元は大衆のなかに埋もれていたものではないのでしょうか。常に新陳代謝をしないと古典として残るだけです。彼は、上層文化の中にだけとどまることを決意したのでしょうか。

彼はアメリカで教えていた大学もプリンストン大学という一流大学です。過去に無名の作家や音楽家を見出したことがあるのでしょうか。城の中にこもり、下界の城下町を見ることやめたので、こういった発言が出てくるのかと心配になりました。

1992年6月のデンマークショックを思いだしました。デンマークショックは、欧州経済共同体をさらに発展させ、単一通貨となるユーロの創設を目論んだマーストリヒト条約にデンマークが国民投票で否決したことです。国民否決の理由は、エリートが進める超国家体制であるEUに、良識をもっていると思われるデンマークの大衆がついてこなかったことだという解説がありました。

村上春樹は大衆を無視したEU政府のような存在になり、今後は作品を展開するのでしょうか。彼がいい音楽とおそらく考えている音楽を作っている人たちは大衆との接点を断とうとはしません。「良いもの、高尚なもの以外受け入れない」ということはしないと思います。

武満徹は独学で作曲を学び世界的な作曲家となりました。しかし、彼はクラシック音楽だけではなく、自らカラオケに足を運び、大衆が歌う流行歌を自分も歌っていたそうです。

マイルスデイビスは自分の演奏スタイルを果敢なく変えてきた人です。マイルスはジャズが高尚芸術に昇華されていくなか、聴衆が減っていくことを目の当たりにしました。ロックのレッドゼッペリンのコンサートに人々が熱狂しているのを何時間も見て、自分の演奏スタイルを変えました。「音楽を知らないミュージシャンの演奏家がなぜ人々を魅了するか」に疑問を持ちつつも、高尚な芸術に昇華した自分の居心地がいい位置に常にいるのをよしとしなかったのです。その中にいては、大衆と乖離してしまうからです。確立した演奏スタイルに固執せずに、ロックでもちいられていた彼は電子楽器を自分の音楽にとりいれて音楽活動を続け、アルバム「Bitches Brew」をリリースします。ロックを通じて大衆との接点を追求し、過去の人とはなりたくなかったようです。

村上春樹には安全な「いい音楽」、安全な「いい文章」の中に閉じ困らずに、SNSにいる大衆との接点を失っていかないで欲しいと思っています。自分の心地よい現在の場所にとどまらないで欲しいという願いです。エリート主義的なところにとどまらず、SNSなどをしっかりと読んでもらいたいです。折角の才能がここでとどまるのは悲しい。

I won’t Haruki Murakami to be a memory yet.