アメリカ大暴動と友人の黒人大学生ライアン 後編


アメリカ大暴動と友人の黒人大学生ライアン 後編

この一連の暴動でライアンとのある日の会話を思い出した。ライアンは、僕の腕の肌の色を差して「その色だったら、人生の可能性は色々ある。自由に好きなことができる。」と言われた。それからライアン自身の肌を指差して「この肌の色だと、ダメなんだ。何もできない。アキラのような明るい未来はない」といったことを鮮明に覚えている。

2003年にニューヨークに音楽の勉強で行ったときには、アメリカで人種問題は薄らいでいると最初は思った。しかし、深くアメリカ人と付き合えば付き合うほど、根深い問題として残っていることがわかった。

ある程度教養のある白人の大学生の友人が警察に不当に扱われた時、「アメリカの白人男性がこういった扱いを受けることはおかしい」と言ったことを思いだした。裏を返すと、白人でない場合は、警察に不当に扱われてることが日常的に行われているということだったのかと思う。彼には「白人である自分がなぜ」という気持ちが根底にある。

彼は非常に教養の高く、人種差別を表立ってすることはない。しかし、自分に危険が及ぶと、つまり「白人としての優越性」が危険にさらされると、「アメリカの白人男性がこういった扱いを受けることはおかしい」といって、無意識に「白人としての優越性」を持ち出してしまうのである。

クルーズシップで白人男性、自分、黒人男性と三人でピアノとリオで仕事をした時も、人種問題というのは水面下で燻っていることを感じた。表面上なったように見えても、今回の一連のアメリカの暴動をみると、人種問題は根深い問題だということを改めて再認識した。乗り越えようとする勢力とその反動。徐々に解決する問題なのか。人間の本性で解決不可能な問題なのか。

人種差別は人類共通の利益から考えると、無くなって行くべきものだと思う。しかし、やはり人間は囚人のジレンマの如く、必ずしもお互いに利益になる選択をする存在ではなく、お互いに損をする不合理な選択をする生き物であることを実感している。