意図的、計画的な犯行は実は罪は軽いかもしれない

親が交通事故の轢き逃げに遭遇し、警察、加害者と接するなかでナチズム、全体主義を生み出す大衆社会をハンナ・アーレントがいかに説明していたかを思い出した。自分の理解では「悪いことをしている意識がなく、悪いことを無意識にしている普通の人がたくさんいると、巨大な悪になる。」とうようなことである。それは普通の人が無意識に悪いことをしているので、歯止めが効かないというか、制限ない悪となるのである。一方、悪いことをしているという意識がある悪人は、意図的におこなっているので、ある意味では制限がある悪といえるのではないだろうか。

 

轢き逃げの加害者は見るからに悪人ではないようである。しかし、自分が轢き逃げをしていること事態を「悪いこと」とはさほど認識してないようである。こういった悪が蔓延すると社会は非常に危険な状況になるのではないかと危惧するようになった。些細なことでも自分はさほど悪いことをしてないと思い、無意識に人を精神的に傷つけているひとはたくさんいるのではないだろうか。

 

犯罪は意図があってやったほうが罪は重くなる。しかし、実は意図しない犯罪には、偶発性が非常に高いものを除き、本人の無知や無関心から引き起こされたとも考えられる。明確な意図がなくても、無知や無関心から引き起こされた犯罪行為については意図が明確にある犯罪よりも実は厳しく罰する必要があるかもしれない。後者の悪の広がりは制御できないのである。法的な立証が困難ではあるが、意図した計画的な犯罪よりも、意図しない犯罪は実際はより悪質な場合を想定した法律も作る必要があるのかもしれない。